翌朝。小笠原カヤが宮本伊織の居る長屋に訪れると、伊織はもの思いに耽るように座っていた。俯いていて表情は判らない。部屋全体を見渡しても、暴れた形跡はなく、問題なく夜を越えることができたようだ。オトタチバナヒメが云うには、術に干渉した痕跡はない為、伊織は寝ていないかもしれないとのことだった。
「おはよう、兄ちゃん。調子はどう?」
「……腹が減った」
「昨日は食事は要らないって云って今まで何も食べていないもんね。おむすび、準備しているよ。じゃあ、縄を解くね」
「……あぁ。頼む」
カヤは、伊織の足首から縄を解いた。まず縄にかけた強化の術を解いてから、固く結んだ目を鋏で切る。それから手ぬぐいを外す。縛跡が薄すら付いていた。彼にとって耐え忍ぶしかない嵐の夜が明けた。
――はずだった。
カヤが手首の拘束を外してすぐ、伊織は傍らにあった鋏を取り上げた。そしてカヤを仰向けに組み敷いて左手で肩を押さえつけ、右手で鋏を振り上げたところで、停止した。この時、カヤは今日初めて伊織の顔を見た。その顔はまるで繊月のように昏く、望月のように眩く、愉悦と苦悶に満ちていた。カヤは、兄を呼び叫んだ。
「兄ちゃん、目を覚まして!」
「贄になれ、十五騎目――!」
刹那、ばちん。と爆ぜる音がした。火花が出た訳ではない。カヤの前に張ってあった障壁に対して伊織が攻撃したのだ。誰かが張った魔術障壁のお陰で伊織は眼の前の人物に傷害を起さずに済んだ。伊織の目の前にいたのは、カヤではなかった。
「――貴殿が、オトタチバナヒメか」
「はい。目が覚めたみたいですね」
見てくれはカヤと瓜二つ。だが、佇まい、纏う魔力、伊織への視線の向け方、何もかもがカヤと違って見えた。
伊織は彼女を押さえつけていた手を離し、膝立ちのまま後ろへ半歩下がる。改めて正座をして、オトタチバナヒメに向かって自らの額を畳につけた。
「オトタチバナヒメ。――どうか俺を殺してくれ」
「……なぜ?」
「俺は今、とんでもない間違いを犯した。人の道に反した、許されざることだ」
「あたしは、貴方がした行動が本心によるものではないことは分っています」
「それでも。カヤに手をかけるなど、あってはならない。俺は、もう駄目だ。せめて盈月の魔力が尽きるまで、己の命を断つことはやめようと思っていたが、それももう無理だ。またいつカヤに刃を向けるか、俺には分からない」
「……貴方の願いは、全ての人間を殺すことですか」
「そうだ。剣の道を極める為に必要なことだ。だがまさかこれまで自分の願いを制御できない程だと理解できていなかった」
「ああ! もう! まどろっこしいわね!」
オトタチバナヒメは声を荒らげた。
「貴方の願いは! 弱者を甚振り、全てを鏖殺することなの!?」
「それは――」
伊織は言葉に詰まった。助之進程度の人間ならば、伊織は容赦なく彼を斬ることができるだろう。だが、奴にはそんなことはしない。そう理解している。敵意も剣技もない人間は、殺す必要がない。
「それは、違う。そんなことしても剣の道には程遠い。それに何より、虚しいだけだ」
「先ほどの出来事と、昨夜の惨劇。これは盈月が魔力を求めた魂喰いで、貴方の本性ではありません。貴方は至上の剣を求めて、人と相対するのでしょう。敵意も、武器も持たない非力な人々の命を奪うことはあなたの本質ではないはず。……それは、貴方の優しさなのです」
「優しさとは遠いものだろう。俺は俺の尺度で相手を見ている」
「優しい人かどうかは、自分で判断するものではなく、他者から与えられる評価。自己を犠牲にしてまで、慈愛を与えることができる人は、滅多にいないわ」
「それができたのは、貴殿だろう」
「あら、そうかしら? 後世の記録に、あたしの心情が書かれていたの?」
「走水を鎮める為に、自らを犠牲にしたのだろう」
「それは事実。どうしてそれがあたしには出来たのか。海神を鎮めるだけなら、他の巫女を差し出してもよかった。でも、あたしはそうしなかった。あたしは、あの人の為になりたかったの。あの人の為に、いのちを捧げたかったの。これは、あたしの我が儘 ……これが、どういうことだか、分かる?」
「……動機や過程がなんであれ、その結果が誰かの為になるのであれば、他人にとってそれは優しさに見える。ということか」
「その通り。あぁ、それと、カヤ様とはきちんと話をしてくださいね。あの子、貴方の死がかなり怺えたみたいだから…… ふにゃあ」
途端に姿勢を崩したオトタチバナヒメを伊織は抱えた。どうやら表に出ることのできる限界がきたらしい。
「……兄ちゃん?」
カヤの意識が戻るとともに、伊織はカヤから離れた。その距離一間。お互いに手の届かない距離になる。
「大事ないか」
「え? ……うん。問題ないよ」
カヤは伊織に近づこうとしたのを、伊織は制止した。
「無理して近づかなくていい」
「無理なんかしてない。今日が最期なんでしょう。鋏を向けてきたときは吃驚したけど、刺すことに躊躇いがあったみたいだし、何よりオトタチバナヒメさんが止めてくれるから、怖くはなかったよ。何より、あの顔。兄ちゃんが稽古するときにたまに見せてたから、知ってた。兄ちゃんは、いつもこんな気持ちで生活しているんだって、初めて知った」
稽古中に時折みせる冥い表情。伊織を最も近くで観察していたカヤが知らないはずがなかった。
「俺が怖くないのか」
「そうだったら、あたしは兄ちゃんちになんて行きません。盈月の頁が体に入り込んでも、兄ちゃんは兄ちゃんだから」
「――カヤは、強いな」
「だってあたしは、小笠原家の養子で、宮本伊織の妹ですから!」
凄い自信だ。
「それでも。辛くなったら、直ぐに云いなさい」
「はあい。それで、今日は何する?」
遺品の整理は大方済ませてしまったし、伊織の活動停止後の処遇についての相談も済ませた。葬式は既に終わっていて墓の準備もあるらしい。遺言状を認めようにも、書くことはない。つまりは、伊織の今後についてするべきことは何もない。
――何をしたらいいだろうか。
仕事が無い時はいつも稽古をしていたが、木刀であっても人は殺せるので恐らくカヤに止められる。御刀手入をするにも刀は手元にない。ならば彫仏? 先程鋏で暴れたばかりだ。鑿を持つこともできないだろう。そういえば、オトタチバナヒメは、カヤともっと話をしろ、と云っていなかったか。
「カヤは、俺としたいことはあるか?」
「あたし? そうだなあ……屋台巡りしてみたいし、品川の桜も見たいし、御徒町の見世物小屋にも行ってみたい……あぁ、あと横須賀の南蛮船って、まだ見られるかなあ。全部やってたら日が暮れちゃうね」
伊織は、カヤが挙げた小さな願いを全て叶えてやりたいと思ったが、その願いは叶えることはできなかった。浅草から外へ出ようとすると、伊織は膝から崩れ落ちるように倒れ込み、動けなくなってしまった。霊脈から外れた場所で伊織を動かす魔力がいよいよ足りなくなってきたのだ。往来の中で座り込むのはどうしても避けたかったことだった。なんとか長屋に戻ることはできたが、このままでは外を出歩くこともままならない。伊織はカヤから貰ったおむすびを頬張りながら思案した。食事をしたことで魔力が補充されたのか、少々気力が戻ってきた。
「参ったな。ここまで何もできないとは」
「でも、いいんじゃない。兄ちゃん、仕事が無い時は稽古ばっかりで最近はいくさの為に色んなところ歩き回っていて、のんびりすることなんてなかったじゃない」
「それはそうだが……俺の都合にカヤを振り回しているようで」
「今更?」
「そうだな。今さらだ。俺は他人に合わせていると自負していたが、結局は、俺自身しか見ていなかった」
「自分のことを見ていたかどうかも怪しいよ。兄ちゃんは、人間としての自覚がなさすぎる」
「人間としての、自覚」
「そう!寝たり食べたりは、生きるために必要なことでしょう。修行だなんだとか云って、そういうのを疎かにするのは、生きることを放棄しているとカヤは思います」
「生きることを、放棄……」
伊織はカヤの言葉を反芻した。剣の道を追い求めるあまり、他の物事が疎かになっていることは自分でも解っていた。自覚しているからこそ、カヤの指摘は重くのしかかる。とはいえ、盈月の儀に参加する前と後で変わったこともある。今の伊織は、少なくとも以前のような無理な稽古はしないだろう。
「稽古と実戦の違いは多くあった。やはり人は、動けば腹は空くし、疲れが出る。驕ればすぐに命を落とす。戦場に身を投じた非日常は、俺にとってはこれ以上なく愉快だった。そんな中でセイバーは、俺を日常に繋いでくれた。カヤが居てくれたから、俺は最期になるまで日常に留まることができた。俺は、あの人以上に食を楽しんでいる人物を知らない」
「セイバーさん、いつも美味しそうに食べるもんね」
カヤは深く頷いた。セイバーの食べっぷりは、カヤから見ても相当な健啖家のようだ。
それから二人は、盈月の儀で出会った人々のことを話した。女武蔵のこと。鄭成功のこと。由井正雪のこと。アリアのこと。子猪を連れた魔女のこと。若旦那のこと。そして、セイバーのこと。
時が過ぎ申の刻も半ばを過ぎた頃には、伊織は立って歩くことが難しくなっていた。カヤは伊織から片時も離れることはしなかった。布団に横たわった伊織を覗き込むカヤの瞳は涙を湛えていた。
「ああ、カヤ。どうか泣かないでおくれ。俺が最期に見たいのは、お前の笑った顔なんだ」
「うん……!」
「カヤには、この泰平の世を満喫してほしい。俺にとって、この世は、眩しくて、窮屈だ。だから……俺はこの死が、惜しくない。至高の剣を見ることができた。向き合う友とに逢えた。俺の人生は、満足のいくものだったよ。……何の因果か、妹に別れの挨拶もできた。もう悔いなんてない」
「あたしを置いていかないでよ……」
「置いて逝くんじゃない。託して逝くんだ。カヤ。俺が見ることのできなかった美しい世界を見てくれ」
「わかった……あたし、兄ちゃんの分も生きるよ。うんと生きて、沢山奇麗なものを見るよ!」
「――ああ、ありがとう。さようなら。カヤ」
「……さようなら、兄ちゃん!」
盈月炉心
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