夢というものは、睡眠中に見る幻覚のようなものである。
ある日の等活地獄。獄卒の唐瓜と茄子は獄卒用道具の点検を行っていた。等活地獄は地獄道の中でも最も軽い刑場であるが、それ故に亡者の数も多い。したがって、道具の使用頻度も高くなり、他の地獄に比べて高い頻度で点検を行う必要がある。その折、一人の鬼が二人に話しかけてきた。
「おーっすふたりとも、捗ってる?」
二人の小鬼は絶句した。なぜなら軽々しく話しかけてきたこの男は、閻魔庁第一補佐官を務める鬼神、鬼灯と同じ姿をしていたからだ。
「ほ……鬼灯、さま?」
「どーしたんですか急に。イメチェン?」
姿形、声は全く同じなのに、どこか雰囲気というかオーラが違う。それに普段絶対にしないであろう満面の笑みを浮かべた彼の貌は、深く奇妙で不気味さを覚えた。
「あまり私の部下をからかわないでじ
ください」
「ウワー鬼灯様が2人!?」
「ドッペルゲンガーだアアアア」
笑顔の鬼灯の後ろから現れた仏頂面の鬼灯は彼らが普段知る鬼灯と変わりはない。
「ドッペルゲンガーではないですよ、彼は私ではありません」
「そーそ。 姿を真似しただけ」
「彼の名はNyarlathotep。クトゥルフ神話における外なる神の一柱です」
「ナィ……なんです?」
「呼び方なんてどーでもいいよ、気軽にニャル様って呼んで」
「あのすみません、ニャル様には悪いんですけれど、知らない単語ばかりでどういう神様なのかよくわかりません」
「我々にとってはクトゥルフ神話は馴染みがありませんからね」
「その、クトゥルフ神話?って何ですか?」
「簡単に言えば20世紀頃、アメリカの小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトやオーガスト・ダーレスらが創作した架空神話です」
神話、と呼ばれてはいるが、その実態は宇宙にまで広がる世界観設定のことで、実際に信仰されていた神話ではない。かつての土着信仰が組み込まれていることもあるが、無関係である。このクトゥルフ神話に出てくる神々は基本的に『邪神』と呼ばれ、主人公ら人間を容赦なく狂気の深淵へと誘う。外なる神とは通常は人間が知覚できない存在であるが、その中でも人間とコミュニケーションが唯一とれるのがNyarlathotep(ニャルラトホテプ、あるいはナイアーラトテップ等と読む)である。
「Cthulhu(クトゥルー、またはクトゥルフ)っていうのは旧支配者の一柱だけど、別に我々の主神でもなんでもなくて、ただの祭司なんだよねぇ」
「ニャル様はいくつもの化身を持っているほか、他人になりすますこともできるので『千の貌を持つ無貌の邪神』と呼ばれています。神話上では多くの化身、または変身した姿が歴史上に残っているとされています」
「ねえニャル様、自分の貌にはしないの?」
茄子は恐れもせず尋ねる。
「戻してもいいけど……大丈夫?SAN値減るよ?」
「さんち……」
唐瓜は既に情報でパンク寸前だった。
「所謂正気度ですね。ニャル様の姿は見たものの精神を狂わせるらしいので見ないほうがいいです。とはいえ、私と同じ姿でいるのも発狂しそうなので、別の貌に変えてもらえますか」
鬼灯が頼むが否や、頼まれた存在は忽ち姿を変え、一瞬蠢く触手が見えたのち、目鼻立ちがはっきりとして、すらっとした長身で褐色肌の見眼麗しい男性の姿へと変化した。
「はい、これでいいかな」
「あれ、今一瞬……」
「唐瓜さん、今見たものは思い出さないようにしてください」
「うわーすっごいイケメン」
「だろう、だろう!この姿に見惚れぬ人間はいないに決まっていろう!」
邪神は誇らしげに両手を広げ姿を見せびらかす。
「ここにスケッチブックがあれば、ニャル様の姿をデッサンできるのになー」
「お前、絵が描けるのか。いいぞいいぞ、いくらでも描け!」
「……そういえば、鬼灯様。ニャル様はどうして日本の地獄を訪れたんですか?」
唐瓜はふと浮かんだ疑問を鬼灯に投げかけた。
「それが私にもわからないんですよ。教えてくれませんし」
「普通、視察とか、閻魔大王との会合とかじゃないんですか? 神様なんですよね?」
「大王は今日、来客の予定はありません。神様とはいえ邪神ですから……疫病神などは日本にもいますが、そもそも在り方や立ち位置が違いますからね」
「……そういえば架空神話の神様なんですよね」
「そうですね」
「えっ、じゃあなんでニャル様がいるの?」
3人の鬼は沈黙する。ニャル様はそんな3人を見て薄く笑みを浮かべていた。
「クトゥルフ神話上での設定における神々の領域は”夢”、この世でもあの世でもありません。しかし多少、地獄は彼の領域に近いのかもしれません」
「領域が違うと言ってもそもそも架空の神様なんですよね?」
唐瓜の顔には焦りが見える。何かに気付いてしまったような、それでいて信じたくないような表情だった。
「架空というのはあくまで我々の認識です。私も地球の神々全てを把握できているわけではありませんし、地球外ならばなおさらです」
「ということは誰かがニャル様の領域と地獄を繋げたかもしれないってことですか?」
「そもそも我々がいるところは既に地獄ではない可能性もあります」
「鬼灯様」
「はい」
「鬼灯様ってもしかしてニャル様の化身だったりしません?」
「唐瓜ー大丈夫?SAN値チェック失敗?」
「精神分析(物理)が必要でしょうか」
邪神は日本の地獄を楽しんだので退散した。